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YOSA32のブログ

プロフィール

YOSA32

Author:YOSA32
歴史が好きで特に幕末に興味があります。土佐で生まれ、土佐に育った環境がそうさせるのかもしれません。
土佐勤王党の党員についての詳細な経歴とか、地元でしか知り得ない情報などを発信して、勤王の志士たちへの顕彰につながればとの思いです。


尊敬する人物は武市半平太先生です。

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野根山事件
勤王党の没落
文久元年(1861年)8月武市瑞山らが土佐勤王党を組織し、その勢力が盛んになり翌文久2年はその黄金時代であった。しかし文久3年(1863年)八月十八日の京都の政変は土佐にも影響し、吉田東洋の流れをくむ後藤象二郎ら佐幕派の勢力が台頭し、勤王派に非常な圧迫が加えられた。そこで清岡治之助(じのすけ)は清岡道之助(みちのすけ)と出高し、武市瑞山らと共に勤王派の挽回策を講じたが何の効もなく、かえって藩主山内容堂の怒りをかい、遂に文久3年9月21日には武市瑞山以下多数の志士が捕えられて投獄されるにいたった。
これら瑞山以下の獄中の志士たちを救い、勤王党の勢力を恢復し、藩論を勤王に統一することが同志たちの念願で生命でもあった。両清岡は同志の間を往来し、いろいろ手をうってはみたが全く成功しなかった。そこで、彼等はしばらく黙して時をまつことを約し、治之助は中山へ帰った。
しかし、獄中の同志はきつい拷問にあい、その苦しみに堪えかねて倒れるものもあった。首領瑞山の生命も危うく、瑞山を救え!同志を殺すな!という声が志士たちの間におこってきた。
獄中志士救援の会合
清岡治之助は最早これを黙視することができず出高して尽力し、七郡の同志に急を伝え、各郡から二・三名の代表者を出して協議することになった。
安芸郡代表は両清岡、香美郡は大石弥太郎・谷作七・森助太郎、長岡郡は池地退蔵、土佐吾川郡から曽和伝左衛門・小笠原忠五郎・河原塚茂太郎・望月清平・西山直次郎が選ばれ、高岡郡は片岡団四郎、遠く幡多郡から樋口真吉・田辺剛次郎であった。これら15名は元治元年(1864年)6月14日の月光をあびて、城西小高坂の門田為之助の家に集まり密会を行った。これを小高坂会議という。
先ず道之助は、「藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。」というと、中郡の志士は、「今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市瑞山は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。」との結論になり、土佐・吾川・高岡・長岡・香美の同志は共に藩庁へ出て大監察に、面接して大いに論じ、芸幡二郡はやや強く献言書を送呈し、五郡の後援をすることに決して解散した。しかし両清岡はこれに不満のようであったが、止むをえず郷里へ帰った。
翌6月15日の朝六ツの鐘を合図に、中部五郡の志士大石弥太郎以下29人が、礼服を着て藤並み神社に参拝して同志の赤心を神に誓った。それから一同うちそろって南会所(四国銀行帯屋町支店附近)へ出頭し、大監察の小八木卓助に面会した。
そして、土佐の国論を尊王攘夷に決定されたい。上下の信望のある容堂公が御隠居されるのは如何と思う。先年、京都の政変以来投獄された者は御慈悲をもち寛大な処置を御願する。との主旨を堂々と述べて、歎願書を提出した。
歎願書を受け取った大監察は、「とくと考慮の上、追って何分の沙汰をする。」との返答だった。これ以上強固な態度に出る訳にもゆかず、一同は引き下がった。
藩庁はこの歎願書の処理について協議したが、たとえ、理に合うことがあるとしても、この重大時局に、軽格の士が、みだりに政治に関与することは、今後時局を収拾する上に支障を生ずる。だから、すきを与えぬため藩主親政とし、容堂がこれを補佐することに決定したのである。
その後、山内容堂は藩主豊範と共に南会所へ出張し、今後、藩主親政の旨を諸役人に伝え、長文の諭達書(ゆたつしょ)を発布した。しかし、それは志士たちの満足する何らの内容ももられていなかったので、彼らは全く失望した。
安芸郡志士の単独行動
両清岡は五郡志士の建白の効果がないことを知り、安芸郡の同志を集めて密議重ね、幡多郡と共に東西呼応して強く藩庁に建言することになった。そこで田野浦年寄役山本左右吉(伊尾木)を高知へやり、小高坂にいる幡多郡の樋口真吉・田辺剛次郎と会し、安芸郡同志の計画を告げ、幡多郡の方策を問うた。ところが、「幡多郡はいろいろの事情がありすぐ東西同時に献言することは困難である。」と答えたので、左右吉は失望しての帰途、香美郡古川村の村田角吾を訪(と)い、山本喜三之進らと合ったが、「後日、伊尾木の山本頼蔵の家で再会し香美郡志士の意見を述べる。」というので、期日を約して別れた。
左右吉は田野へ帰って同志にその旨を告げると、みな、幡多郡は因循(いんじゅん:古い習慣や方法などに従うばかりで、それを一向にあらためようとしないこと)で前議に反すると憤慨した。やがて清岡治之助は、前約の日伊尾木の山本邸へ行き山本喜三之進らと面談したが、香美郡もまた因循で安芸郡に同調する様子が見られないので、治之助は彼らと別れて帰った。ここにいたって安芸郡は、他郡に関せず単独行動をとることに衆議一決したのである。
そこで七月初め、安芸郡の志士達は田野海岸で暗夜秘密会をひらいたが、このとき山本左右吉の妻たみ子は子供を背に負いながら見張りをしたと伝えられている。
志士達は、根本方針は一致していたが、会議は具体的な方法についていろいろの意見が出された。
野根山中の要害地、岩佐の関に拠り歎願書を藩庁に提出するがよいと云えば、岩佐は交通不便で西方がよいと反対する。西方で事を行うと、田野軍局兵に後を遮断され進退に都合が悪いという。また、要害の地で事をおこすは強迫に類し我々の本旨に反し、却って藩の怒りにふれ、その目的は達し難い、一同高知城下へ屯集して強力に歎願し、容れられなければ餓死しても退かないという意志を示す、もし捕縛されようとする場合は、かねて用意し速やかに切腹するのがよかろう。そうすると、死後に藩は吾々の精神をあわれみ、残りの同志たちの意見を容れるだろう。そして少人数の犠牲で、一般同士の士気を振起することができる。と、しかし、その場に望み、少しでも心憶する者があると、それこそ恥を後世に残すのみならず、吾々の献言はいつわりとなり却って目的は達せられないという意見も出る。まさに議論百出で白熱した討議は重ねられた。
結局、清岡道之助が同志の意見をまとめ、野根山屯集は進退が自由で、もし目的を達することができぬ場合は、阿波を通り上方へ脱出ができる。阿波海部郡代は有志と聞くので、これに頼ることを説く者と一郡代たのむに足らずとする説もあったが、大勢は野根山の岩佐へ屯集し、藩庁に歎願するということになった。
そこで、道之助は同志中、年長で世故(せこ)に長けている岩佐藩士頭川島惣次(41歳)に海部郡の情勢を探知させることにした。惣次は直ちに姿を変え、阿波へ向かって出発した。彼は十数日後に戻り、「阿波藩も佐幕派が勢いを得て、勤王派の者は往来も自由にできない。ことに海部郡代は近日中に免職される噂である。」と報告した。しかし両清岡の野根山屯集の意思は動かず、その計画をちゃくちゃく進めていった。
安田不動の会合
元治元年(1864年)7月16日の夜、安芸郡の志士達が、最後の秘密会を安田不動の浜で行うことになっていた。田野から安田までは約3Kmばかりの浜街道で、大きな松並木があった。その中程の山手に不動明王を祭った小さな堂があり、その南方は、一面の砂浜で所々に岩礁が点在している。このあたりを不動の浜と呼び大小の岩陰にかこまれた砂地がある。そこが志士たちの会合の場と定められていた。
その日は丁度うら盆だったが、田野の同志たちは、郡庁の疑いを避けるために、夕方まで、浜田の北の溝で替干(かえほし)をやり鰻を沢山捕っていたという。
夜分は、所々に盆踊りがあり人出も多かったので、志士たちはそれにまぎれ、彼方此方より不動の浜へ集まってきた。月は静かに寄せては返すさざ波の不動の浜を照らしていた。東南には羽根崎が墨絵のように浮かび、加領郷の漁家の灯火がちらちら見えている。
一同は車座になり、いろいろ論議の結果、屯集の日を7月25日、集合場所を田野芝町の宿屋佐渡屋と定め、当日までは、肉親の者にも絶対秘密にすること、手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)の類は当日までに田野芝町の仕立て屋(山郷)に注文しておく。万一に備え槍、鉄砲、主天砲(臼砲)等の武器を用意すること。それは、藩主に刃向かうためでなく、吾々の精神の護りである。つまり武市先生らの救い出しと、藩論を尊王攘夷に統一する実を挙げるために、吾々の精神を護るので謀叛(むほん)のそれではないことを確かめ合った。
また、万一の場合は加領郷の同志浜田十内の所有船を一艘借り受け、海から脱出する手筈が整えてあることが道之助より説明された。
会合が終わり、志士たちの黒い影は、三々五々どこともなく消え去った。後には月光に照らされた巨岩と、寄せては返す波の音が静かに聞こえていた。
翌日、田野浦年寄役山本左右吉(伊尾木出身)は道之助から外部との連絡係を頼まれ、一時は断ったが、説得された。それから左右吉は、百姓姿をして北川村野川の谷から野根川へ登り、岩佐へ出る間道を調査した。これはもし、事がならず、同志が上方へ渡り長州へ脱出した場合には、自分も、井ノ口(安芸市)の刀匠小松如意助を道案内として、畑山(安芸市)より韮(に)生(ろう)を通り脱藩する用意を整えるためであった。
岩村神社の会合
安芸郡の同志が野根山に拠り、事を挙げる噂を聞いた高知の同志は、皆それは過激に失すると言って憂(うれ)えた。そこで安芸郡へ行ってその企てを中止するように説得しようとの意見も出たが、藩庁の嫌疑を慮(おもんばか)り、誰も敢えて説得に行くものがなかった。
このとき、同志清岡治之助の知己曽和伝左衛門が国産取調の名目をもって安田へ出張してきた。彼は深夜にひそかに道之助と治之助を訪問し、現在の藩庁の情勢を説き、時機的に過激に失するとして極力中止をすすめたが、治之助は頑として応ぜず、短刀を抜き「この短刀の彫刻を見よ。」と伝左衛門の胸元へ突きつけた。それには、
   玉はこの道を分け行くもののふのやまと心は折れずまがらず
と、鮮やかに彫られてあった。しかし、伝左衛門はなおもひるまず、連日連夜同志たちを思い止ませるようと説得につとめたので、やがて首領道之助は、彼の説得を容れたかのように感ぜられたので伝左衛門も稍々(やや)安心して高知へ帰ったが、なお一抹の不安もあった。
ところが、治之助は手紙を道之助にやり、内京坊の岩村神社で伝左衛門の勧告について深夜協議したが、治之助は、これまで同志の結束を堅め、すでに野根山屯所の準備を整えているのに、今更中止となれば在獄者はもとより、我々同志に対しても何の面目があろうか。むしろ当って砕けるまでだ。後は何とか打開されるだろう。
「今世短所の数うべきがあれば、即ち是れ第一の人物。」
と、中国の東萊の言葉を引用して蹶起を奨めたので道之助はその意気に心を打たれ、あくまでもこの大事を決行しようと両雄は手を握りあった。
道之助は家に帰り、最も信頼のおける北川郷の新井竹次郎を深夜自宅に招き、曽和伝左衛門から説諭をうけて以来のことを話し、なおも彼の意見を求めたが、竹次郎も治之助と同じく「決行」あるのみと答えている。
野根山屯集
元治元年(1864年)7月25日の夜、志士たちは田野芝町のはたご佐渡屋へぞくぞくと集まった。主人虎之助は義侠心が強く気立てのよい男であったという。
志士のうち、村山某は足の負傷を理由に参加せず、岡某は門を堅く閉じて返事もなかったので、呼びに行った志士たちが怒って、大きな門柱へ一太刀切りつけてあったという。
やがて集合した一同は、出発の酒盛を始めた。清岡道之助、治之助から指令と段取りについて説明がある。酔いが廻った頃、用意の武器も運ばれ、清々(すがすが)しい装備に身をかためた。志士たちは夜半に人目をしのび一人一人佐渡屋を出で、奈半利川を渡り野根山を登り始め、朝休という処で一同勢揃いをし、米ヶ岡を過ぎ、岩佐の関に到着したのは翌朝であった。そして番所頭木下嘉久次の役宅に落着き、藩庁に対する歎願の準備にかかった。
岩佐は、野根山街道およそ52kmの中程にあり、その昔、土御門上皇が幡多の配所から阿波に向かわれるときここを通り、命名したといわれる清水がこんこんと湧いている。1,000mくらいの高山で夏でも朝夕は肌寒い仙境である。
これより先、郡奉行仙石弥次馬・中山又助lは道之助らの挙動に注目し、常に警戒を怠らなかったが、この夜の志士の行動はまだわかっていなかった。翌朝この壮挙から脱落した浜田・島・桧垣らは自己の安全をはかるため郡奉行へ密告した。郡奉行は驚いてこれを直ちに藩庁に報告して常備兵を招集し、警戒を厳重にすると同時に、田野郷庄屋高原省七・田野郷士樋口皆丑の両名を使者として岩佐に遣わした。
27日の朝、使者は岩佐の墓地で両清岡に面接し、直ちに下山を勧めたが「野根山屯集は万策つきてのことで反抗の意志は全くない。歎願の趣は藩庁へ書面を提出するので、これ以上語る必要はあるまい。」と拒否された。二人はなお、いろいろさとして見たが、志士の固い決心を動かすことはできなかった。
この時、安田の柏原省三は叔父柏原治衛門に書をしたため、屯集の理由を述べ、父母のことを依頼し、豊永斧馬も兄弥三郎に着がえの衣類を持参してもらうよう使者に頼んでいる。
両清岡は夜を徹して協議し、27日付けで両人の名儀により藩庁への嘆願書と郡奉行所へ差出書を作成し、豪胆な宮地孫市が使者となって郡奉行へ届け出た。その要旨は「激動する国状を述べ、ひたすら国のために尽力した武市瑞山以下の在獄舎救出と軍備強化の必要を説き、藩の方針を一定して非常一決の指示を望む。もしわれわれの挙に罪名があらば後日如何ようともされたい。」と赤心と吐露した堂々たる歎願である。
安芸郡の志士が野根山屯州の報をうけた藩庁の驚きは大変なもので高知城下ではいろいろの流言が乱れとび大きな戦が始まると一時は混乱した。28日、大監察(おおめつけ)小笠原唯八は直ちに手配し、足軽大将に外物輪頭横田祐造・同森本貞三郎・同中山助八・同福岡三兵衛を命じ、足軽60余人をつけ高知を発足させた。
その日夕刻、追討軍は田野へ到着、郡奉行仙石弥次馬・中山又八が惣宰(そうさい)となり、郡内の郷士、民兵を招集し、部署を定めて警戒に当たらせた。
このとき、外部との連絡係山本左右吉は、藩兵の迫る情況を道之助らに告げ、警戒の手うすい竹屋敷口より脱出するように奨(すす)め涙をのんで別れたといわれている。
追討軍は総勢約300人で野根山街道を進み、別に津呂の多田治信・佐喜浜の井上某らは民兵数十人を率い佐喜浜川に沿い、段部落から岩佐へ向かった。
追討軍の本隊は、奈半利から6kmの米ヶ岡部落で休息し、前衛隊は栂(つが)の峠の密林を経て下装束の要地は入ったが、ここは不便なので、高崎吉之助が精兵25人を引率して先行したが異状なく、上装束まで進むと夕刻になったので、ここに野陣を張り、本隊の到着を待った。ここから軍使に羽根郷士鍋島佐次郎を岩佐へやり、歎願の趣は聴くので速やかに装束野まで降りることを要請した。
が、道之助らは、その証拠となるべき文書がない以上は断じて下山はできぬと、全く応じなかった。
8月1日の朝、軍目付野中太内が参着したので、小笠原監察はこれまでの次第を彼に報告した。つづいて足軽二名を軍使として番所へ向けると、志士たちは協議中であった。軍使は本陣まで下るよう郡奉行の命を伝えると、両清岡は一同と打ち合わせの上で返答するといった。
そこで、彼らに反抗の意志があるか否かを確かめるため軍目付は前衛隊に発砲を命じた。この銃声を聞いた清岡道之助は、吾々は獄中の武市瑞山らの救出と、藩論を勤皇に挽回するのが目的で、反抗はしないが、ここで捕らえられると謀叛の罪名をうけるので、一時この鉾先(ほこさき)をさけて脱藩し、おもむろに後事を謀ろうと考え、先ず一同を裏側の蛇谷より脱出させ、両清岡は後を整理し、出発の合図に銃を高くささげて発砲した。
追討軍はこの銃声を聞き、偵察を番所に出してみると、番所に人影もないと知って、盛んに弾を撃ちつつ番所へ到着したが、門扉に無数の弾痕をとどめ、内部は何の取り乱れもなく、ただ別れに用いたであろう酒樽が残されているのみであった。追手はなお志士たちが附近に潜伏しているかもしれないので、手分けして木の間をくぐり、草をかき分けて一刻(いっとき)(二時間)あまりも探索したが、一人もいなかった。
志士阿波へ入る
志士達は兵器を持ち小川筋を北へ進んだが、土佐国境の竹屋敷に関所があるので、その下の尾河から東北の山向を登り、吹越峠を越えて阿波へ出た。
藩の指令書によれば「前略、安芸郡で残らずこれを召し捕り、手向かう者は沙汰に及ばず打ち捨てること」と、あり、謀叛者扱いの厳しい指令である。追手は岩佐よりその後を追いかけたが、8月2日の報告には「昨日八ツ時過ぎ(午後二時過ぎ)北川郷安倉(あぐら)より奥筋を通ったことを聞き、すぐ追いかけたが、国境をぬけ他領へ入ったので、竹屋敷番所を通り追いかけた。しかし、兵器をもち他領へ入ることもできない。だが趣意書を受けたからは追詰め召し取る心得である。」とある。
志士達は山をくぐりぬけ、尾崎村深塩(ふかしお)へ、槍をもち、剣付鉄砲(げーベル銃)をかついで山から出て来たので、土地の人々は非常に驚いたという。
道之助は健脚宮地孫市を甲浦へやり、万一の場合の脱出に備え、中島門蔵らが乗組み廻航している筈の船を求めさせたが着いていなかった。その手ちがいは室戸岬沖で風波に妨げられて室津港で風待ちをしていたからである。そこで一行は詮方(せんかた)なく阿波路を選ぶことになった。
甲浦大庄屋の届書に「前略、宍喰(ししくい)浦より一里ばかり奥の同郷尾崎村へ今日七ツ時(午後4時)剣付鉄砲を負い、槍20本持ち、人数23人越し来り、庄屋はないかと尋ねた。」とあり、余程空腹だったものだろう。
尾崎村庄屋寺尾藤五郎方で休み、昼食のもてなしを受け、藤五郎はそれとなく海岸へ出るのは危険だと注意をしてくれた。道之助らは、奥地の麻植郡(おえぐん)を通り、上方へ行く考えであったが、一行中に病人ができたので止むなく宍喰へ向かったのである。
太陽はかんかんと照り、焼けつくように暑く、志士たちは宍喰川へ飛び込み水浴して汗を流した。沿道の人々は、ものものしい様子の一行を不審に思い、中には宍喰番所へ知らす者もあった。
果せるかな、一行は宍喰浦の番所で兵器をとりあげられ、願行寺(がんぎょうじ)へ誘導された。境内には百日紅(さるすべり)の花が美しく咲き、志士たちの心を慰めるかのようであった。
日和佐の郡庁はこの急報に驚き、8月2日、大里村の郷鉄砲組を動員して願行寺をとりまき警戒に当らせた。郷鉄砲組とは、阿波藩の国境警備のため大里村に駐屯させている常備の武士で、人数はおよそ80人で二組に分けてあった。平素は平たい大里の海岸で武を練っていた剛の者である。
8月3日、清岡道之助、清岡治之助、近藤次郎太郎、新井竹次郎の四名が惣代となって、海部郡代へ書翰を出している。その要旨は、「私共は土佐で時勢につき歎願したが容(い)れられず脱出してきたが、しばらく宍喰浦にいることを許された。その御愛憐には感謝するが、なお取り調べにつき寛大な処置をお願いする。」とあった。
土佐郡の追討軍は甲浦に到着したが、兵器を持って他領へ入れないので、8月3日、阿波藩へ書翰を出している。
「土佐甲浦にいる捕手方が、兵器を持ち貴国へ入りたいが、御指図の有無を御急報してもらいたい。」と、要求している。
8月4日付けで、両清岡と近藤次郎太郎、新井竹次郎の名儀で、海部郡代へ書を提出している。
「私共に対し行届いた御(お)扱(あつかい)振(ぶり)を感謝する。国境甲浦に近い宍喰浦に滞在していては、万一あるまじき変事となっては御厄介の上に御厄介になっては何とも恐縮至極、その時、土佐人の眼前で自若(じじゃく)としているように見えても一同不本意である。且つ御詮議も長くかかると往復の苦労もあるので、私共を郡庁のある日和佐辺りへ移してもらいたい。」と願っている。これらの惣代に安田の近藤次郎太郎と北川の新井竹次郎の名があるのは、彼らは参謀格の重要人物であったのだろう。
牟岐にいて
阿波藩は協議の結果、一同を宍喰から牟岐(むぎ)へ移すことになり、宍喰浦大庄屋田井久左衛門及び志方与左衛門、紅露志和吉、岸喜蔵らが藩命をうけ、志士たちを郷鉄砲組に警戒させながら牟岐へ移動させた。
安岡大六氏は、昭和12年旧牟岐浦庄屋の息子故久佐木種太郎氏(当時11歳)に会い、その時の情況を聞いている。
「土佐脱走人は阿波の役人が東牟岐へつれてきたが、多くは筒袖(つつそで)にズボンをはき、太刀を落とし差しにしていた。海岸へウスベリを敷き休ませ、茶果等を与えてもてなした。」
やがて東牟岐の八幡宮前の広場へ誘導して二・三人の組に分け、主な家へ分宿させた。首領清岡道之助は新井竹次郎と共に、東牟岐の医師生田亮平(りょうへい)の家にあずけられた。清岡治之助は綱屋(津田)という魚商人の家にいた。脱走人のいる家は、役人と郷鉄砲組が各一人づつ何時も交代で不寝番をし、家の廻りはかがり火をたいて警戒にあたっていた。近くの山上にある海蔵寺を臨時役場とし、代表者に出頭を命じて取調べ行っていた。このようにして一ヶ月はまたたく間に過ぎていった。
出羽島沖には軍船が廻航して島影に碇泊し、楠浦の山陰では役人たちがいろいろ協議していた。しかし、土地の人々はこれら脱走人に対してはたいへん同情して大切に取り扱い、中には接待に出る時にも袴着であった人も居たといわれる。
8月7日、阿州より甲浦捕手方への書翰には、「脱走人は調査の上、貴国の者であれば早速御引渡しするように評議するが、一応牟岐浦へ移し、祖父山(いややま)三名筋も来て厳重に警戒して取調べ中で、御地の役人が入国するのは、暫く御控えになられたい。取調べが延びる場合は御相談申す。」と。
これに対し8月8日、甲浦の捕手方より阿州への書翰に、「前略、元来不届者が兵器を持っているので取調べも困難で、万一の場合は御迷惑をかけるので、当方の捕手方の者を御国内に入れるよう評定の上急報されたい。」と懇願し、なお志士の身分姓名を通知している。翌日またも書翰を出し、「取調べがすみ次第御引渡しになるように」と督促したが返答がないのであせり、8月12日には、「当国脱走者を取調べ中と察するが、御面談したいので役下の者両名を海路より日和佐へ遣わすので、委細御聞取り、御詮議の上御直報されたい。」と、きつく申し込んだ。
東牟岐海蔵寺臨時役場では、奥浦庄屋志方与左衛門、宍喰大庄屋田井久左衛門、庄屋田井実馬、同百々猪之丞、同多田木左衛門らの地下役(じげやく)が藩命を受け、志士代表者の取調べを行った。以下は松尾野章行著「揩山集」の記事の要約で、これにより取調べの模様が推察される。
                 問
「此度、当国海部宍喰浦へ入り込みの上一札を差し出し、鉄砲等を携えていたのは尋常のことではあるまい。しかし、既に兵器を渡したので、我らは当藩重役の命により事実の取調べを行うので、事ここに至った事由を申し述べてもらいたい。」
                 答
「私共は国許で時勢につき歎願したが、取り上げられず、憂国の余り同志が決心して岩佐に屯収し、なお書を指し出したが、採用されず討手を向けられた。もとより手向かいはせず、割腹しようと思ったが、徒(いたずら)に死すると、謀叛の汚名を受けるのが残念で、その勢いをさけ京摂(けいせつ)(京都・摂津)へ行こうとした。その内に帰国の期もあろう。また、生きていて藩主が出馬する場合は陰ながら守護しようと、同志が申し合わせて脱出してきた。が、国禁により引留められ、思いがけなく御厄介になり、恐れ入った訳である。自国に対し兵器をもって脱藩したのは憂国の一心であった。なにとど京摂の地へ行けるよう寛大な処置をお願いする。」
                  問
「止むを得ない事情があっても自国を捨て、上国に赴くは不都合である。
且つ貴国より留置の依頼を受けているので、これを許すと違約になる。弊藩は諸君の望みを叶えることはできない。速やかに帰国されたい。」
                  答
「私共は、死を決し一旦国を出たので、今更何の面目があって、再び故郷の人々に恥をさらすことができようか。貴藩が私共の願いを入れなければ、進退究まり割腹する外はない。何卒御諒察下さるよう御願い申す。」
                  問
「何故進退究まったと申すか、心得違いである。かく御懸念するはもとよりのこと、御懸念をしても御重役の考えもあり、御心得違いをとくと御考え直して慾しい。」
                  答
「長々御厄介の上、かく懇(ねんご)ろに仰せられるので、帰国できれば帰国するが、歎願の筋さえ御詮議下されば追って屯集につき如何なる沙汰を受けてもよい。また脱藩の罪は受けても仕方がない。私共は後悔している。この上は、貴国の御憐(あわれ)みにより帰国が叶い、且つ歎願の筋も御詮議下さるよう御計らい下されば有難く存ずる。以後は非を改め、主君に忠節を尽すことにより罪のつぐないをする心(こころ)懸(がけ)である。よろしく御取り計らい下さい。」
                  問
「御改心の上帰国を望むは最である。歎願の主旨が採用されなくても君心の関係上、御改心の上は国禁を犯したことは恐れ入らなければならぬ。何かの処罰を受けても自業自得で心よく従わねばならぬ。」
さらに代表四名の名儀と、柏原禎吉以下十九名の連署をもって二通、を海部郡代に提出している。
「屯集につき少しの兵器をもち国境を犯したからは相当の処罰は覚悟している。歎願につき重ねて不都合はしないので、帰国できるよう取り計らってもらいたい。」
清岡道之助が、かく恥をしのび再び故郷の土を踏むことを決意したのは、審問の際に罪を一身に引き受ける覚悟があったからだと伝えられる。
志士達が牟岐に滞在中、阿波藩は彼らを優遇し、土地の人々も非常に同情的であった。現在、生田家に清岡道之助の遺墨が残っている。
清岡治之助は、
    身は国に心は阿波にとどまりて霊の真柱撓(たわ)むべきかな
        田中収吉は、
    枕上の虫声苦吟を伴う 夢成り忠憤夜沈々たり
    この身今日君の為に尽す 未だ尽さず神州男子の心
        安岡鉄馬は、
    乾坤漠々として国塺をとざす 義をとり仁をなし古人を憶う
    浦客となり他郷数行の涙 回天何日か君臣を拝す
阿波藩では脱走者を土佐へ渡すと極刑に処すかもしれないので、彼らをかばうためか引渡しを遅らせ、その警戒及び外の脱走者探索のためと言い、海部のみならず祖父山三名筋まで動員し、国境警戒に当たらせた。それは、土佐藩との交渉を有利に導くための圧力と共に、追手と阿波藩との間に事が起こった場合に直ちにこれに対応するためとも解せられる。
土佐藩は阿波方に対しての脱走者引渡しの交渉がはかどらないので、8月11の夜、大目附小笠原唯八を現地への立越(出張)しを命じた。彼の手記によると、翌12日申(さる)の下刻(午前四時)発足して立田宿・13日安芸・14日岩佐に宿し、15日に甲浦に至り郡奉行に対面する。
御郡方郷廻役五内克次郎並びに甲浦庄屋吉松秘蔵らが郡の奉行名を以て、阿波方と書翰の往復に交渉を行った。阿波方では上方より引渡しをすると言うもはかどらず、郡奉行が直接彼の地へ行き阿州の郡奉行と直談し、場合により自分も越境を決意したが、彼の方よりとかく申し出るので実行できなかった。
8月29日に至り、近日中に阿州より脱走者引渡しの通知があった。翌30日宍喰の地下役人より甲浦大庄屋に対し、「九月一日より脱走者を少数に分け、一人づつ名札をつけ、国境の峠で引渡すが、平穏の者は当国法により帯剣のままとしてその後へ附添うが、搦(から)めた者はその儘で引渡すことにする。脱走者の所持品は引渡さない。」というのである。
8月30日にきた28付の公翰(こうかん)は、麻田桶馬、森権次、乾退助(板垣)、後藤象二郎の連名で、自分(小笠原)宛の書状と、断罪の御直書の写であった。
                御直書写
郷士清岡道之助等弐拾余人徒党を結び、兵器を携えて野根山山中に馳集まり、事を構へ強訴致し、遂に自国を捨て、阿州路へ逃亡致す条(じょう)不(ふ)届(とどき)至(し)極(ごく)、其罪不レ待二吟味一、於二東郡中一、速に首刎(は)ねるべき者也。
鬼観察と言われた小笠原唯八も、さすがにこの処置には驚き、直書を得てから処刑したいと藩庁へ急報し、直書の趣は極秘を以て郡奉行仙石弥次郎に告げた。
9月1日は、昨夜宍喰の地下組頭より脱走者引渡し期限を通達すると言うので、甲浦庄屋吉松秘蔵が阿波へ立越し、その趣を聞いて帰った。それは脱走者を今日(一日)五人引渡し、残りの者は四日迄に引渡す筈である。
引渡しが決定すれば多数の警固は不必要で、足軽大将及び足軽は帰府させ、囚人は郡奉行が惣取締りとなり、当分田野郡府の牢へ入れるよう申し渡した。
小笠原は、直書の趣は、郡奉行以外は誰にも言わず、田野の郡府へ引き揚げ独自で行うと決し、未の下刻(午後三時)甲浦発、申の下刻(午後五時)野根に着いた。その時、陸目附徳広直作が、御自筆を持参したのでこれを拝受した。罰行は軍政取扱いをもち取り行うよう仰付(おうせつ)けられ、いよいよ処刑の決意を固めたのである。
志士土佐へかえさる
土佐藩では、これらの志士の処置につきいろいろ討議した結果、先ずその身柄を引取ることになり、阿波藩と交渉した。阿波藩でも、これにつきいろいろと討議されている。
牟岐町史によると、「享和元年(1801)11月、那賀、海部の郡代は、太田忠三、佐和龍三郎、赤川佐蔵の三人だった。佐和は酷吏として名があり、赤川とは仲が悪かった。かつて、年貢米の善悪を論じたとき、佐和は米粒を盆撰りにさせたので、百姓は困窮し、河内・中村・鮮瀬の百姓らは申し合わせ土地を捨て、土佐の甲浦へ百人、魚梁瀬へ百人逃散(ちょうざん)した。土佐藩はこれらを説得して阿波に送還した。この事件は内密に済ましたが、郡代、手代の落度となり、それぞれ処刑された。阿波藩はこの事件の返礼に、清岡道之助以下二十三士の身柄を土佐藩へ渡したと言われる。」と記してある。
志士達は土佐へ送り帰されることに決まった。道之助と治之助は土佐へ帰されて、土佐藩より審問されると思っていたが、中には家族に土産物を買う者、或いは途中で殺されると思ったのか、宿から昼食のため、握飯を与えられると「枕飯(死人の枕頭へ供える握飯)」と言って、受け取らない者もあった。
生田亮平の家にいた道之助と竹次郎は、早朝に起き旅装を整え、縁先へ腰を下ろして草鞋をはいているところへ、亮平が、「何か記念のしるしに」と、硯箱に料紙をそえて持ってきたので、道之助は筆をとり、
「余暫く阿波の国生田氏の家に留まる事あり、一方ならぬ染心にあづかりしが、今其別れにのぞむ」とて、其座に梅に鶴の画ありしを見て、
      生久し田もてことぶく梅に鶴また訪ふ折の契り阿波勢舞
                   甲子秋の日       旭梅軒再拝
新井竹次郎もまた、
「予ゆへあり、阿波の牟岐なる生田の家にとまりて主人の厚き情に預りぬ。其の家を別れければ聊(いささ)か歌をよみて別れとす。」
     身をいたす秋の浪風おさまれば又ぞや君に阿波で済まし
                                  正覚(新井)
別れとなればもの憂いものである。分けても縁なき他郷の客とは言え、一月近くもなじんできた人々の心からなる言葉には、胸を打たれる思いがする。志士たちが牟岐へ残した別れの歌に次のごときものがある。
       かきたてし思いはげむに有明の露のあしたやふみよむかはむ
                                   清岡道之助
       うらやすのうらやすき世に逢ひながらうらやすからぬ別れをする
                                   清岡治之助
       この程の君が情は阿波の海あわではことにかきも尽くさず
                                   吉本培助
       いへば身の為にもならず思うこといわで別るることの哀しさ
                                   木下嘉久次
       身はついに鳴門の海の汐ならで動く心を憐れとは知れ
                                   横山英吉
志士達の国境への護送は、駕篭(かご)の前後を役人と実弾をこめた郷鉄砲組各一人が護衛し、前の駕篭が逢坂へかかると、合図の煙火が上がり、次の駕篭が出る。とぎれとぎれに駕篭が八坂八浜の険路・山と砂浜をつなぐ一筋路をただ黙々として進む。
紺碧の海上に浮かぶ出羽島陰には、軍船一艘が沖から警戒している。くっきり姿を現す大島は彼らの旅立ちを見送るようである。脚下に砕くる白波の音……さっさっと駕篭の垂をまく秋風。いずれも彼らの胸に哀愁がわく、右手の赤松林中のはぜが燃えるように赤い。
近藤次郎太郎は、
       ふるさとへ帰る錦は秋深く染むるもみぢの心なりけり
新井竹次郎も朗読する。 
       一逢志を立て何ぞ功なし 葉落ち秋すでに中ばとなれり
       危険を経来り幾何を知る 又逢う八坂八浜の浦風
竹次郎はまた、
      平然国を去り己に繁し 高低一路黄昏近し
      天に向い是非の事を問わんと慾す 唯風波有り岸を突き喧し
      虫の音に心ありげにうらまれて我が帰るさの路に鳴くらむ
                                        豊永斧馬
      鳴く虫の憐(あわ)れをことに帰るさの浅茅の露にふりしきるらむ
                                        安岡鉄馬
浅川浦に立ち並ぶ漁家、大里海岸の長い松原を左に見て海部川を渡り鞆浦(ともうら)を過ぎ、宍喰の大黒利三郎の家の前で駕篭が止まった。出迎えの宍喰庄屋田井久左衛門が彼らを迎え挨拶すると、志士たちは感謝をひとみに現し、田中収吉は一詞をしたためて久左衛門に渡した。
     乾坤道暗く忠信泣く 義を取り仁を成す志未だに伸びず
     孤客他郷数行の涙 帰国寥々君臣に対す
9月1日、国境の小山の上で郷廻役人が志士七人を受取ると、囚人として両刀を取り上げて罪人用の草器(そうけ)駕篭に乗せ、福岡三兵衛、横田祐蔵が足軽を率いて警固に当り、昼夜兼行で送った。
9月3日、大監察小笠原唯八は、下横田十助を田野へ遣わし、自分は今日も国境の東股山上へ出張し、夕方に囚人を残らず郷廻役人が受取り、郡奉行仙頭弥次馬が卒を率いて警固し、自分も共に甲浦を発足した。夜に入り、甲浦坂より松明を用い、岩佐附近で松明を消し、附近に心を配りながら進んで行った。
4日、未の下刻(午後三時)田野へ着き、夜、郡奉行と秘密裡に足軽大将と係に示談し、処刑の準備を進めた。
志士奈半利川原で処刑
あくれば元治元年(1864年)9月5日、志士たちは早朝に獄舎より引き出され、一人一人手錠をいれられた儘(まま)、例の草器駕籠に乗せられたので、一同は高知へ護送されて審問を受けるものと思いつめていた。しかし、宮地孫市は横目職を勤めていた父孫作から士人がかく手錠されるのは極刑だと聞いていたので、隣にいた小川官次にそっと語ったと言われている。
やがて駕篭は続々、岡地の坂(中芸高校南の坂)を降り始めた。坂の下で道が二つに分かれ、西に向かえば高知方面、東すれば奈半利川へ出られる。
真先に清岡道之助の駕篭は東へ向かった。道之助は「送り道が違わぬか」と問えば、「奈半利川原へ」と輿夫は答えた。
奈半利川に着くと、一面に引き廻された幔幕が秋風にはためき、大小の藩吏が威儀を正して並び、郷士、足軽、民兵らが水も洩らさぬ警戒振りである。
幕内に入った首領道之助は語気凛然と、「事、すでにここに至る。また何をか言わんや、ただ潔きよき最後を遂げ、志士の芳名を千載に残さんのみ。」と叫んだ。さすがに一党の首領だけはある。
陸目附は、寺尾権平以下二十一士の姓名を読み上げ、
右者、徒党を募り、兵器を携え、野根山山中へ屯集強訴の所業遂に阿州表へ遁亡、不届至極の科を以ち打首
 被二仰付一候。
                     九月五日
清岡道之助と清岡治之助は主謀者の故を以って
  以上同文。於二雁切り川一梟首三日晒、以後打捨被二仰付一候
                     九月五日
宣告文を読み終えると、例により最後の酒饌(しゅせん)が運ばれ、志士たちは大盃の酒を飲み干した。
やがて真先に十六才の木下慎之助が、白布に面をおおわれて土壇場に座り、
         かくなりてすつる命はおしまねどすぎゆく後の御代はいかにぞ
と、声高らかに詠じ、「兄様お先へ」と言った。兄様とは、木下嘉久次である。なんといういじらしさよ。三尺の秋水がたちまち頭上にひらめいた。
次の檜垣繁太郎も同じく十六才。
     花つぼみ峰のあらしのはげしきに聞くもさびしき秋の夜の月
近藤次郎太郎は、「健依別(たけよりわけ)男子近藤次郎太郎為美当年二十五才」と言い、
     君が為尽くす誠はいたづらに我とあしたの露と消えぬる
     諸人の惜む命は惜からめ世の為と思へば
                                   横山英吉
     かくる時何か命の惜からむ死して御国のためと思へば
                                   木下嘉久次
     露とだになにか惜まむわが命惜むは後の名のみなりけり
                                   豊永斧馬
     君のため身はなきがらと捨つるとも末清からむ神の恵みに
                                   岡松恵之助
     花さかで身は朽るとも丈夫の真魄とどめて国は汚さじ
                                   千屋熊太郎
     奈半利川かへらぬ水の底深く尽すこころのあわとなりぬる
                                   川島惣次
     心なき峯の嵐のはげしきにまだきもみぢの散りものこらず
     歎願非レ聞吾事畢(後句不明)
                                   田中収吉
     砕けては仇し光をととまし蓮葉に宿る露の白玉     
                                   清岡治之助
斬役横田某は治之助の首を一刀で果たすことができなかった。治之助は手を挙げ、「暫く待て」と制し、「足利氏となって生きるより楠氏となって死するを潔よしとする。」と、言い終わらぬうちに、川原の砂に鮮血がさっとほとばしる。
最後の首領清岡道之助は斬役人が刀を振り上げると、「エイ」という気合に気抜け、斬役人が交代した。
           男子従来甘二鼎鑊一  
と朗々吟じ出す声未だ終わらぬうちに首足所を異にした。時に年三十二才。独眼竜と志士たちの間に恐れ敬(うやま)われていた彼の生涯はかくして終わった。
佐々木高行日記に、「右同志二十三人存じがけもなく土(ど)壇(だん)へ掛る場合に、詞を吟じ、歌を詠じたが、書留で差し留められ、歌は覚え詞は聞き留めず残念、かような火急の死に向いて辞世など致すは、一と通りの者ではない、何かの時には屹度御用に立つべき者を惜しいことである。」と書いている。
このときの大監察小笠原唯八の手記には「清岡道之助以其の意正義に出るの説あるも、甲冑火器を携え野根山山中に籠り強訴に及ぶ、其刑状反罪免れ難し、此の故に救う能ず。」と、心中同情していたが、役目上已むを得なかったのであろう。
このように志士たちは秋風に散る木の葉のごとく潔く最後を飾った。この二十三烈士のうち、七名が安田出身者であることに大きな意義を感じられる。すなわち徳川藩政時代の中期に種を蒔かれた安田文化は、宮田定則によって育てられ、幕末に至って大きくその花を開き、岡本寧浦・高松小埜(や)・釈至静・斉藤梅外等によって多くの人材がつちかわれた。
郷土の先覚者達は、幕末から明治維新にかけて封建制度を打破し、強力な近代国家へ脱皮するために、勤王攘夷、或いは討幕を唱え、国家革新運動のために一身一家を犠牲にして活躍したのである。二十三烈士の大部分は、高松小埜や清岡治之助の指導をうけたものである。彼らが土佐のみでなく中央にまで進出して、天下の檜舞台で大きく活躍したことは、実に燦然と開いた安田文化の花と云えるだろう。しかし、これら有為の人材は多く中途に倒れた。もし天が彼らの命をかせば、明治以降における活動はさらに目覚ましいものがあったことだろう。
『新安田文化史』安芸郡安田町発行より

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贈従五位 掛橋和泉伝

掛橋和泉
掛橋和泉3



掛橋和泉、諱は吉良。幼名を順次といった。
天保6年(1835年)3月、梼原村に生れる。父は那須常吉、母は掛橋氏の歌。和泉はその二男として、幼少から文武に志し、同村郷士の那須俊平の門に入り、文学、武術を励んだ。叔父に、神職掛橋因幡があったが、弘化4年(1847年)、二十八歳で病没した。因幡の姉利世が、家のことは、とりしきっていたけれども、神職を継ぐ者がないのを嘆き、甥の順次を養子とし、亡弟因幡の職を嗣がせ、和泉吉良と名を改めさせる。この時、和泉は十三歳であった。
家の職に勤務するには、国学を学ぶ必要を感じ、家に伝わる蔵書を読み調べ、その深奥に進むにしたがい、我が国は、明らかに、皇国と呼ばれるべきものという信念が湧き、尊皇愛国の情熱は高まった。
そして、時勢の推移を聞くにつけ、わが国の前途を憂慮するようになった。
安政6年(1859年)12月、吉村虎太郎が、同村庄屋となって転じて来た。和泉の家は、庄屋屋敷と隣接しているところから、常に出入りして、親交を重ねていくうち、意志の通じるものがあって、いよいよ、勤王の気持は固まっていった。
世相は、まことにめまぐるしく変わり、尊皇攘夷の論は、天下に起こり、文久元年(1861年)の秋には、本藩の武市瑞山らが勤王党を結成し、吉村虎太郎はじめ、和泉の別家西村広蔵ら、本村郷士五名もまた、この血盟に加わった。
文久2年(1862年)3月には、吉村が、4月には那須信吾らが相ついで脱藩するなど、志士の心血をあおりたてた。
和泉は、家が豊かであったので、同志の運動費として、ひそかに、家財を持ち出して旅費の助けにやったことがあった。このことが親戚の耳にはいり、はては、義母の耳に達したので、厳しくその金の使途について詰問をせられるに至った。
和泉は、もしここで事実を明らかにすれば、同志の秘密を破る恐れがある。さればとて、事実を告げなければ、義母を欺くことになり、まことに不孝、その罪は軽くない。むしろ、潔く切腹するのがよい。と決意して、親友、玉川壮吉の家に行く。
この苦衷を訴え、死後のことをいろいろ頼む。壮吉は、酒を出してきて、酌み交わしながらこれを慰め。
「そんなことは、ちいさなことだ。志士たるものが、こんなことを空しくも、命を捨てて何とするぞ。今や皇国の大難が、目の前に迫っている時、長州または、京、大阪に亡命して、国事に尽力し、国難に殉じることこそ、捨てる命も、値うちがあろうというものだ。」
と、諄(じゅん)々(じゅん)と慰め、諭した。
和泉は、沈思黙考、しばらくして、ようやくうなずき、酒杯を重ねつつ、時事を論じて、世の更けるのも知らないありさまであった。ついその夜は、玉川家で寝てしまい。翌朝、帰宅して、ひそかに脱藩の準備をした。
その夜、更けてひとの静まるころを見はかり、決行しようと起きてみれば、用意した刀や行李(こうり)がない。
義母が、和泉の挙動、顔色をうかがい。あるいは、亡命するのかもしれないと察し、かくしてしまったのである。
和泉は進退、たちまち窮する思いであった。死して義母におわびをし、鬼となって国難を救い、男子の本分を尽さんものと、その気持ちを紙片にしたためておいて、文久2年(1862年)6月2日、祖兄の墓地にいって、小銃を咽喉に当て打ち貫き、朱に染まってたおれた。時に二十八歳、
同志はこれを悲しみ、惜しみ、打ち集まってその葬儀を盛んに行った。その後獄にあった吉村虎太郎は、赦されて帰郷するや、すぐにその墓に詣でた。
「武士の思ひ詰めたる忠と義を心一つの死出の旅かな」
と一首の和歌をよみ、哀悼の意を表した。
明治14年(1881年)5月、靖国神社に合祀された。
明治18年(1885年)8月、南海忠烈碑を高知県大島岬神社の側に建て、姓名が刻まれた。
明治31年(1898年)7月4日、特旨を以て従五位を送られた。

「維新の門」の掛橋和泉
維新の門の掛橋和泉

「土佐梼原勤王烈士列伝」より

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贈正五位 前田繁馬伝

前田繁馬
前田繁馬



前田繁馬、諱は正種。
高岡郡松原村庄屋、前田是助の嗣子広作の長男として、天保6年(1835年)5月松原村に生まれた。三人の妹がある。
祖父の是助のもとで学問を修め、精励努力し、十八歳になってからは、梼原村郷士那須俊平の道場にはいって、剣術を練る。敏捷でしかも剛健、したがって、その技術は、大いに進んだ。
安政年間、須崎郡庁につとめ、余暇には長沼流の兵法を研究して収穫が大であった。そのころ、わが国は、幾百年間の長い夜の夢から覚めかけて、海陸は、年とともに、そのさわがしさの度を加えていた。郡庁には、大勤王家の間崎哲馬、須崎浦の大庄屋には吉村虎太郎がいて、両氏は往来をして国を憂えての談義ばかりであった。
繁馬と、両氏の間に交渉はなかったけれども、聞くとはなしに、天下の形勢については、耳にはいり、胸の底深く潜在している純粋な気魄(きはく)といったものが日に日に頭をもたげてきて、その意気は高ぶってきたけれども、まだ、人にその気持ちをあけるには至らずに時を過ごしていた。そうこうするうちにも憂国の志士が続々と中央に、雄飛するのを聞き、京、大阪の空を望んで心中ひそかにその機のくるのをうかがっていた。
文久3年(1863年)正月、同郡北川村郷士、常五郎の三男、前田要蔵が、臨時御用の命を受けて、上京することになった。
この時期を失ってはならじと、その従者を願い出て、上京がかなった。
上京後は先に脱藩し、京都にいる、吉村虎太郎や那須信吾らを訪れて、自分の気持を述べた。勤王運動に加わり、また諸藩の同志と交わっていった。
吉村の挙兵には双手をあげて賛成したけれども、人の従者の身であれば、思うように動けず、ひそかに脱藩を決意する。
文久3年6月、帰国するといつわり、要蔵から暇をとり、大阪に下って、大浪主計と変名する。
諸藩の志士と交わり時事に尽す。
このころ三人の妹宛に出した手紙には、
「もはや、兄はこの世にないものと思い、老いた親のため、善き夫を迎え、孝を尽くすように。国の為なら、一家の血統の存続などに執着することはない。」
と皇室を思うまごころのほの見えることは何ともいいようがない。
文久3年8月14日、吉村らが忠光卿をかしらとし、義兵を大和に挙げる計画をたてるや、すぐこれに加わり、輜重(しちょう)の責任者となる。京をたって大阪に下り、和泉河内と道々、同志を募り、勢いようやく盛んとなる。大和に入り五条の代官を屠(ほふ)る。
8月19日、三在村に進み、代官を襲い、士気大いに高まった時に、京都から、朝義が急変し、義挙を中止せよとの警報がはいる。しかし、もはや、後退をすることはできず、成敗は天運にまかせて進み、天之川辻に本営を定める。
義挙に加わる者が相次いで、軍気はすこぶる盛り上がる。
8月26日、高取城を攻める。敵の防備は堅く、城を落とすところにはいたらず、退却をする。吉村は、憤激して夜襲をかけに出かけて、流れ弾で傷付いてしまう。
9月7日、津藩の兵を撃退はしたけれども、越えて9日、彦根、郡山、両藩の兵が迫って来た。これを撃退はしたものの、敵は、ひきぎわに丹生神社と神職の家に放火して逃げた。繁馬らは大いに怒り、部署、持ち場を定めて、その夜敵陣に夜襲をかける。敵は狼狽し、乱れ、逃げまわった。この勢いをもって、大阪へ脱出しようと計画を立てる。しかし、津藩がまた迫って来た。また、これを撃退したが、時刻はおそくなり、兵はみな大いに疲れている。その上、何回にもわたる攻防に、弾丸の消費もおびただしい様子である。
忠光卿は、繁馬に武器弾薬、食糧などの点検を命じた。繁馬が調査してみると、残り少なくなっており、弾薬などはあと一回の戦いの分ぐらいしかない。このことをくわしく、忠光卿に報告をする。忠光卿は、大いに難儀がり、大阪へ出ることを断念する。
善後策を相談して、十津川に立て籠ることに決定した。
9月13日、本隊は上野地に陣を移す。翌14日、十津川郷士、数十名が、連れ立って離(り)叛(はん)脱走した。
さらに、15日には紀州、彦根、津の三藩の兵が三方から迫ってきた。多勢に無勢、仕方なく、天之川の陣を焼いて上野地の本隊と合流する。
14日以来、脱走者が毎日のように相次いで、士気は落ちる一方。先の見通しも心もとなくなってくる。十津川も頼りにならないと判断して、方向を伊勢路に変える。
残った者は、筋金入りの者ばかり、結束して、尾鷲に向かい、山又山をたどって9月21日、浦向村に達した。
この進路先も、敵の守備が、非常に厳重であることを探知する。翌22日は、同地において、疲労をいやしておいて、さらに方向を転じて吉野を迂回して河内に出ることにし、翌早朝、出発しようとしてみると、輜重と、傷病者を輸送するのにやとってあった役夫は、だれ一人来てくれない。繁馬らは血眼になって走りまわり、ようやくのことで、七、八人をやとってくる。しかし、輸送は、思うようにはかどらず、繁馬は独断で輜重の大半を焼きすてて、昼近くなってようやく出発した。
木の根、岩角に足をとられつつ、翌24日伯母が谷にたどりつき、民家にはいって休憩をとる。前方を偵察させたところ、昨夜前方一里半ばかりのところの和田村に、敵の斥候が来た形跡のあることをつきとめた。
八方完全包囲されていることが、ひしひしとわかる。もはや、満足に脱出できる道はないと思われる。この上は、各自、心任せにこの厳重な囲みを突破し、幸いに生存し得たなら、たとえ一人であっても、恥を忍んで、同志を集め再挙を謀り、最後の目的を達するよりほかあるまいということになる。
そこで、傷病者を連れて脱出は不可能ということになり、ここで、永別と涙ながらの話が決まる。
戦闘にたえ得るもの四十余名は、前進して和田村を過ぎ、鷲家口までいってみると、敵陣は、かがり火を天を焦がすばかりに焚いている。しかし、月はまだ昇らず、周囲は一尺先がわからぬ暗さである。
全隊を、親衛、後衛の二手に分かれ「天忠」の二字を合言葉と決めて、岡の上から、馳せ下りる。
敵陣の中へ、がむしゃらに突入して、縦横にあばれまわり、肉薄乱撃となる。たちまち七、八人を倒す。虚を突かれて、あわてた残りの兵は、散って逃げるのを追って、川を渡り、石原某の陣に迫る。
敵は、小銃を乱発してきて、わが兵の先鋒、数人倒れて乱れる。それでも、弾丸を冒して、どよめきたてれば、敵兵は、さらに乱れる。市街戦となったため、いつのまにか、忠光卿らとはぐれて見失う。
ただ、輸送係の関為之助が従っているだけとなる。進んで紀州陣地を突破して囲みを抜け出し、太郎吉という者を案内者として、あちこちを、さまよい潜行する。同26日初瀬町に出て、樫木屋で休み、悠々として腹ごしらえをした。食事が終わったところへ、津藩士の町井八郎が部下十人余りを率いて来て、外から家の中めがけて小銃を乱射してきた。繁馬は太刀をまっこうに振りかざし、敵に向かって外へ出ようとする。しかし、敵に一太刀をあびせることもできないうちに、すでに、数発の弾丸が、貫いていた。恨みをのんで、たおれる。時に二十八歳。同行の関為之助もここでたおれた。案内をしていた太郎吉は捕えられたが、後、釈放されたということである。
明治14年(1881年)5月、靖国神社に合祀される。
明治18年(1885年)8月、南海忠烈碑が高知県大島岬神社の側に建てられた時、姓名を碑陰に刻される。
明治31年(1898年)7月4日、正五位を贈られる。
明治28年(1893年)、南山戦死者三十三回忌に当たり、時の奈良県知事古沢滋が、旧勤王同志と計画して、大法会を大和の宝泉寺で営んだ。さらに、墓地を修築したり、欠けた碑石を改築したりした。このことが朝廷の耳に達し、御下賜金があり、この費用の一部に当てられた。さらに、地方有志もまた、この挙に賛同して、寄附をするものが多かった。
繁馬は死んで後に、目的を達したことになり、その上、このような光栄ある扱いを受けたので、その霊もまた、安らかにねむることができよう。

「土佐梼原勤王烈士列伝」より

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贈正五位 中平龍之助伝

中平龍之助
中平龍之助



龍之助、諱は定確、幼名喜代次と呼ぶ。
天保13年(1842年)4月3日、梼原村地下浪人、佐平の長男として生まれた。母は中越氏の娘登根、三人の弟と一人の妹がある。
嘉永4年(1851年)、十歳の時、同村大庄屋、松山馬蔵(後、柿右衛門正哲と称した)に師事して、読書習字を学んだ。
安政元年(1854年)、十三歳からは、同村郷士、那須俊平の門にはいり、剣術の教えを受ける。名前を龍之助定確とよぶようになる。
二百余年間、いたずらに眠りつづけていた我国も、嘉永年間に、米艦が渡来したことで、目が覚まされた。時勢は、進展して、ただ剣法だけを頼りにしているようでは世の進展についていけないと、さらに、公文藤造について、砲術と練兵の技を学んだ。
年とともに、海外との交渉は、頻繁となり、開国、鎖国の論が起ってようやく、さわがしくなって来た。
桜田門外の暗殺、坂下門外の襲撃等の噂は、梼原のような山間にも伝って、人心は大いに動揺した。
龍之助の心も、動かないわけではなかったが、志士と交わる機会がなくて、ひそかに、世の形勢を見ているというふうであった。
文久2年(1862年)になって、吉村、那須の脱走、掛橋の自殺など相次いで、心は益々、たかぶったけれども、心中深く秘して、時の来るのを待った。
あたかも藩主山内公は、御内勅があり、上京と決まり、同村郷士、中平保太郎も、藩主の供を申し付けられた。龍之助は、この好機を逃してはならじと、その従者となって、文久2年6月28日出発。
高知からは藩主の行列に加わって、同年7月12日大阪に着いた。藩主は、麻疹(はしか)にかかり、大阪で滞在養生すること数十日に及んだ。文久2年8月25日、ようやく入京した。
これより以前、各藩の志士は、京都、大阪間を往来し、尊王攘夷の説をといてまわっていた。龍之助も、これら志士と交わり、益々勤王の志を固めていった。
志士の運動はみのり、朝議は三条、姉(あねが)小(こう)路(じ)両卿を勅使として、幕府に向かい、攘夷催促をするに決まり、「土佐藩士は、勅使に随(したが)って東下し尽力せよ。」との御沙汰があった。瑞山らは、相談の上、土佐藩士を両卿にお供させることとし、保太郎は、三条公付きに選出せられたので、龍之助も、またこれに従い、文久2年10月12日京都を出発し、10月28日、江戸に着いた。しかしながら、将軍は病気ということで、入城できず、いたずらに時をつぶして、同年11月28日ようやく入城して、勅令を伝えることができた。
文久2年12月5日、将軍から勅答があったので、同月7日、江戸をたって12月22日京都に帰着した。京都滞在中は、常に志士と往来した。
文久3年(1863年)正月、藩主が帰国することになり、保太郎に従って退京した。
2月12日、高知城下に帰り着いた。
帰藩後は、村の同志、那須俊平、中平保太郎らはもちろん、上岡胆治、半山では、片岡孫五郎、千屋金策、その他の諸氏と、一藩あげての勤王を説いて奮起するように尽力するのだが、藩の要職にある人々は、事なかれ主義を取って動かない。
説得をしてまわったり、建白等、寝食をなげうって、東奔西走あらゆる手を尽したのだが、藩論は決定をくださない。
文久3年5月10日は、幕府から、諸藩に命令した攘夷の期限であるから、長州はしばしば、外国船を砲撃して、攘夷の先(せん)鞭(べん)をつけた、という報らせもあった。
それだけではなく、同年8月の政変で、三条ら七卿(しちきょう)は西下したことなど、志士の心を沸かせた。文久3年9月には、千屋菊次郎、松山深蔵が来て、宮野々関門から脱藩した。
上岡胆治もまた、武市らが投獄されたことを知らせておいて、9月下旬、宮野々関門から脱出した。
龍之助は意を決し、遺書を認め、その末尾に
「散りて行く秋の木の葉は朽ちるともまた来る春の恵みまたなむ」
と書いて鎧(よろい)櫃(ひつ)の中に納めて、ひそかに亡命を計画した。
文久3年11月6日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤真之助が、脱藩の目的で来て立寄る。龍之助は、こおどりして喜び、ともにその夜中、保太郎に送られて、宮野々関門から脱出して、伊予土居村で一泊した。同地の矢野杏仙の家で医学修行中の玉川壮吉を訪れ、時勢を話し、後のことをよろしくと頼んで別れた。
翌8日、坂石で泊り、9日には長浜に着いて、船便をみつけ10日出帆、14日に防州の三田尻に着いた。16日茶屋殿にはいり「本山勝八」と変名して、先着の同志や、長州の志士と交わった。
ともかく、土佐の同志を奮起させようということになり、11月20日、三田尻を出て、伊予長浜に上陸し、同月25日には、伊予土居村にもどって、矢野方の玉川を尋ねる。しかし、玉川は帰郷して不在ということなので、人を頼んで、引き返した事情を知らせた。玉川は、おりからの大雪を踏んできて、会うことができた。
長州の現状、京、大阪の事情を語り、もはや一刻も猶予はならない。在藩同志は藩論振起に努力し、もし、一致不可能であれば、長州に行って、ともに天下のために、尽すように、ということは、現在、長州にいる同志の祈っているところだと告げてくれ、と頼む。
さらに、那須俊平、中平保太郎宛に、一書をしたため
「とけて又逢ひ見ん時に語らまし積る思を雪に任して」
と書き添え、玉川に依頼をしておいて、長州へと引き返した。
長州においての、龍之助は、三条以下七卿の御殿詰となり、ある時、三条、壬生、両卿から、自筆の短冊を頂いたので、手紙を添えて、これを父母に送った。時には、長州藩主に拝謁を賜り、面目をほどこしたこともあった。便りがあるごとに、手紙を書いて、在国の同志の奮起を促すなど、尊王倒幕に誠心誠意尽した。
そうした志士たちの働きや熱誠も、公武合体派で堅められている朝廷では取り上げられず、このままでは、何の進展もないとする論がたかまり、元治元年(1864年)6月、在長の諸藩の浪士で、「忠勇隊」を組織し、長州藩の各隊とともに上京することを決意した。
龍之助は、忠勇隊第二伍に加わり、元治元年6月16日、防州三田尻を出帆して、同月21日には浪花着、安治川口から上陸し、6月23日の夜、淀船でのぼり、24日山崎に着く。使者を郡山守御番所にやり、八幡宮に参籠すると称して、ここにあがり、日暮れ時に宝塚に移る。
翌25日、天王山に移って、要所を手に入れる。
このころ、那須俊平と黒岩治部之助は、小倉宮神職の小泉方に、病気保養と称して引き移り、ひそかに、京都、朝廷の動静を探っていたが、龍之助、南部、伊藤、三瀬らは時々往来をした。
桂小五郎は、忠勇隊組織前から、この挙に賛成せず、平和に解決したいとして、ただひとり、各隊より先に京都に潜入して、諸公卿、在京各藩、ことに因州藩に取り入って、百万運動し、朝議を一変したいものと計って動いていた。これに対して、尹宮、および、会、薩両藩は、これを阻止しようと動くため、朝議は動揺し、一つ意見にまとまらない。
7月1日、長州藩入京を防ぐため、徳川慶喜に、京師守衛総督の命がくだった。しかしながら、慶喜は、応仁兵乱の二の舞を演じることをおそれ、おだやかに、長州兵を大阪へ引き返させるようにと画策した。長州兵もまた、できることなら、京都へ兵を進めることは、避けたい気持ちから、嘆願に次ぐ嘆願という方法でおだやかに、しかも、日時を引きのばす計画で長州藩主の率いる援軍の到着を待った。
そのうち、後続部隊も次々と到着しはじめ、士気は大いに高まってきた。
一方、朝廷では、五卿を擁した長州の大軍が続々、上がってきているとの報らせで、もはや、猶予はならんと、7月18日、最後的命令が長州藩にくだった。
ここにいたって、長州兵は、後続の大軍を待ついとまはないと判断、入京して決戦ということになった。忠勇隊の諸士も、勇躍していう。
「運つたなく、屍を都の外に横たへることになっても、魂は、永く帝京に留まって、皇運を守護したてまつる。」
明けて7月19日、暁を破って各隊先を争い、京都市内へ突入した。
忠勇隊は、益田右衛門介の指揮に属し、松原通り、柳馬場を過ぎ、堺町御門に達した。ところが、ここで越後藩兵にこばまれ、転じて鷹(たか)司(つかさ)邸の後門から進入した。越、会、両藩の兵が来て攻める。長州兵は、垣の上から銃撃をする。尾崎、那須ら二十余人は、表門から両藩の兵の中に突入する。敵兵はなだれて退く。尾崎、那須らは門内で小休しているところへ、両藩は彦根兵の援軍を得て、盛り返し来る。
尾崎、那須らは、再び敵に対しながらも戦死した。わが兵は邸内に籠り死守する。諸門の衛兵が群がって来て、邸を囲み攻撃をしかけること激しい。弾丸は邸内に雨あられとうちこまれ、長州の久坂、寺島二氏に、上岡胆次ら、重傷を負って自殺する。ほかの者は、敵の囲みをうち破るべく、後門から彦根兵団に向かって突きすすむ。柳井健次まず戦死し、龍之助は不運にも敵弾で、右手四本の指を打ち切られ、何もできなくなる。戦友の介錯を得てここに死んだ。時に年23歳。
明治14年(1881年)5月16日、靖国神社に合祀された。
明治18年(1885年)8月、南海忠烈碑を高知県大島岬神社の側に建て、それに姓名が刻みこまれた。
明治21年(1888年)7月4日、特旨をもって正五位を贈られる。



「土佐梼原勤烈士列伝」より

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贈五位 那須俊平伝

那須俊平
那須俊平



那須俊平、諱は重任。
文化4年(1807年)正月2日、梼原村に生まれた。
同村郷士の那須忠篤に養われて子となり、その家を継ぐ。食田九石五斗を領した。
武技を好み、その上、国学もたしなみ、槍術を山田喜馬太に、剣法を三本広作に学んだ。
ことごとく、その奥義を極めて皆伝を受けた。特に槍術は優れていて「出藍(しゅつらん)の誉れ」(弟子が師よりもすぐれた才能をあらわすたとえ)と讃えられた。
ある人が、俊平を評して
「彼のことば使いは野卑だが、槍をとらしたら、恐らく、上士の中でも、その右に出るものはなかろう」と、激賞している。
家に道場を開いて、子弟を教導した。
近郷の壮士で、彼の道場で学ばないものはなかった。
天保14年(1843年)、隣村、越知面に一揆が起ったことがある。俊平は単身で、出向き、その首謀者を諭して、解散させた。郡奉行から、その功労を賞せられた。
嘉永年間、外国船が、幡多郡清水沖に現れたとの警報を聞くや、すぐに須崎港に出張して、警備に加わったりもした。同港は深尾相模の守備区域となっていたので、これを賞して、深尾家から刀鍔を受けた。
嘉永6年(1853年)、藩から、多年子弟を教導した功労を賞して、口糧を給せられた。
俊平には、不幸にして、男の子がなかった。よい婿をと考えること久しかったが、本藩家老深尾氏の臣で、浜田宅左衛門の第三子に信甫という身体剛健、性質は豪宕(ごうとう)、気節を尚び、果断にして事に耐え、武技を好む、非凡な男のあることを伝え聞く。天の与えとばかりによろこび、人を介して、礼を厚くし、これを迎える。
安政2年(1855年)2月、娘、為代に配して、これで一家の形は、ととのった。俊平は大いによろこんで、名を信吾と改めさせた。
俊平は初老といえども、なおよく家事を処理し、信吾に心配させないようにし、信吾には高知に、往復させて、もっぱら武技を研鑽させた。
文久元年(1861年)9月、武市瑞山は江戸から帰り、勤王の檄(げき)を飛ばすと、七郡の志士は、これに呼応して、先を争い血盟をした。
信吾もまた、これに加わったけれども、機密に属することなので、このことを養父俊平にも秘していた。
文久2年(1862年)3月、本間精一郎が長州に行っていた吉村の書翰を持って訪れて来た経緯や、同月下旬に、坂本龍馬と、沢村惣之丞らが来て泊まって行った要件も信吾は、俊平に告げなかった。俊平は、隠居の心持で、いろいろと、風評は耳にはいってきたけれど、すべては信吾にまかせ、自分は、家事にのみ没頭していた。だから、天下の形勢がどうなっているのかは、全てわかっていたのではなかった。文久2年(1862年)4月8日、参政吉田東洋が暗殺され、信吾が、その刺客の一人であって脱藩したことを聞き、大いに驚き、歎(なげ)き、はては、そのあまりにも信吾の心の強さを恨んで、「妻子をも捨るためしは武士の習ひと知りて袖はぬれつゝ」
と詠じた。
4月24日、郡庁に行き、信吾の脱藩を届けた。家に帰って諦めた気持から「残しおく二人の孫を力にて老ひぬることを忘れこそすれ」と詠んで、少しは心が静まるだろうとしていた時、弟子の一人、中平保太郎が来て、師の心労を慰め、かつ、天下の大勢や、藩の状態を語り、信吾の考えと、その行動について、こまごまと告げた。
俊平は、悟ところ大きく、心深く温めていた赤心は、むらむらと湧き起り、老体ではあっても、諸士とともに国事に尽さんものと話す。保太郎は大いに喜び、村内には、弟の菊馬、西村広蔵、竹村猪之助らは血盟の同志であると告げる。以後、お互いに往来して、国寺を講じ合うようになった。
文久2年(1862年)6月2日、掛橋和泉の自殺があった。その心底を憐(あわれ)み、同志とともに会葬する。
武市らわが藩の勤王同志の運動は、むだではなく赤誠は天聴に達して、同月中旬に、わが藩主に入京するようにとの内勅のご沙汰があって、上京と決定。中平保太郎も、そのお供を命ぜられた。その出発に際し、俊平は、信吾宛に一通の書翰に、槍術皆伝一巻を添えて、これを頼む。
「父母、妻子のことは、露ばかりも心にかけず、一心不乱に、一命をわが大君の御為に捧げまつれよ。」との伝言とともに、信吾に届けられた。
信吾は、これを受取り、生まれてこのかた味わったことのない喜びを感じ、ただちに、筆をとって返事をしたためた。
この度の厚意を謝し、今までの父に何も言わなかった心の中も打ち明け、吉田暗殺のことをくわしく書いて、今度は、同じ心で国に尽くすべきことなど、こまごまと書いたものをよこして来た。これからは、手紙のやりとりも度々あって、互いに励まし合った。俊平は、信吾の手紙によって、天下の事情に明るくなり、内外有志と気脈を通じて、国のために、尽力するようになった。
しかしながら、文久3年(1863年)になってからは、議論はまたもや、保守的傾向となり、勤王派をうとんずるようになった。
武市瑞山でさえ、目の色も変わり、手の打ちようがないと歎声を洩らすほどで、脱藩を策す者も出てきたりした。
文久3年9月21日、松山深蔵、千屋菊次郎の二人が、長州に行くといって来て一泊した。保太郎も呼び、酒杯を重ねつつ、時事を談じ合った。翌日、同道して、保太郎方に行く。上岡もまた来て、勤王の動きが遅々として、振るわないことを慷慨し、和歌や俳句を作りつつ杯を重ねた。
その夜、両氏を国境に送り、翌二十三日、上岡の帰るのを送る意味で、また酒を酌みつつ家庭の事情を述べ、進退思うようにならないことを嘆いて、
「大君のみことかしこみ仕へなん身はずたずたによしさかるとも」
と詠歌を上岡に贈り、自分の意志を表す。
上岡胆治の長男、淡斎が来て、明日午前十時胆治は、郡庁に来いとの召し出しがあったと告げる。
俊平は、必ずよい事であろうと祝って送り返した。
翌二十四日、保太郎が来て、話をしているところへ、上岡胆治が突然尋ねて来た。
話すところによると、藩論は大きく変わり、去る二十一日に武市瑞山以下数氏が投獄されたという急報を、須崎の郡庁へ向かう途中、孫五郎から受け取った。油断していたら、役人の手に捕えられることは必定、と考えて、脱藩を決意して引き返して来たという。
俊平はいう。
「今となって、亡命すれば、割腹を怖れた臆病者とのそしりを受けよう。武士として、口惜しい次第だ。むしろ、おとなしく、縄に就くのがよいのではないか。」
保太郎も、これに賛成する。しかし上岡は、頭を振って、
「いや、今や国家存亡のとき、空しく獄舎に朽ち果てるとか、また、割腹して果てるとかは、年来の苦心も水泡に帰するというもの。人の笑いを恐れるのは、私欲だ。恥を忍び、他日、事あるの日が来た時、天朝の御為に身命をなげうってこそ、志士たる者の本分と思っている。小さいことに、こだわっている時ではない。」
と、論じ合うこと一時間余り、ついに、胆治の説に帰決した。そうと、胆が決まれば、早く行動に移すがよい。両人は、送別の盃を交わし、その行くを見送る。
文久3年(1863年)10月21日、西村広蔵は病気となって、長州から帰国することになり、土方楠佐衛門、山本兼馬が、これに付き添って、伊予、土居村まで来た。入国ができないので、人に頼んで、広蔵と関門外の親戚まで帰らせるために、国境、河津村まで送るからとの連絡があった。
俊平は、保太郎をひそかに、関門から脱出させて、両氏を、同地の福松方に訪ねさせ、遠来の労を謝し藩状を説明させ、天下の形勢を聞き取らせた。
保太郎は帰って来て、こまごまと報告をした。それから保太郎と計り、在藩の同志とも連絡をとりながら、武市瑞山の考えを信奉して、一藩勤王の実を揚げようと心を砕いた。さらに捕えられている武市瑞山らを救出したいと考えて、画策もしたが、思うようにはならなかった。
月日は、またたくまに過ぎて、元治元年(1864年)になり、同年5月30日、千屋金策が来て泊まる。玉川壮吉と謀って、これを関門外に送り、脱藩させた。
これより前、容堂老公は、吉田東洋の死を非常に惜しみ、帰藩するやいなや藩の要職の人々に対し、その後の処置が、手ぬるいと叱責された。そこで、藩庁内の吉田派の勢いは再び強くなり、長く放置状態となっていた、下手人探索が、厳しくされることとなった。
その当時、雁切橋のそばの藪の中にうち捨ててあった油紙に、「石休亭」と書いてあったことから、これをもとに探偵を進め、那須邸の字名が「石休場」ということを嗅ぎ出し、郷廻りの役人は、俊平を捕えようとしている。との警報が、届き、空しく捕吏の手に落ちるのをおそれ、同年6月上旬、同志が相談の上、脱藩させようということになった。しかしながら、俊平は老体であるので、若い者を護衛につけようということになった。玉川壮吉が、千屋の脱藩を手助けしたこともあるので、自分が俊平老の護衛役をつとめたいと、願い出たので、これを許すことにする。
同志が、百万警戒をしつつある時、すでに捕吏は、庄屋まで来ていることを知って、急を告げてきた。二人の家の間は、わずか十丁足らずしかないのだが、本道は、庄屋の門前を通っているので、危険である。玉川壮吉は、旅装を整えて、元治元年(1864年)6月5日の夜中、人が寝静まるのを待って、ほとんど道のない、山を越えて、俊平の家にひそかに行く。
行ってみれば、俊平もまた旅装して、妻、娘、二人の孫を一室に集め、三組の杯を出して、別れの宴を張っているところであった。玉川を招き入れ、献酬する。
一番鶏が鳴きはじめたので、名残は尽きないけれど、相励まして家を出る。妻、娘が、二人の孫を抱き、門に出て送り永訣する。妻も娘も、終始一滴の涙を見せなかったのは、女丈夫というに足りる。
玉川は、その家訓の厳しく、徹底していることに感じ入ったという。
山路を迂廻して、伊予に出、中井田、八幡浜らに泊まりながら、喜津に到着。九日未明出帆の船で上の関に泊まる。十日には三田尻に着く。土佐の同志で、先着の者は皆、馬関へ行って不在であったが、南山義挙の残党、半田門吉は、那須という姓を聞いて出て来、信吾の養父と知り、大いに歓待した。
6月12日、宮市天満宮に参拝し、この夜、土方らに面会をした。
6月14日、招賢閣にはいり、梼山源八郎と変名をして、天下の志士と交わる。
これより前、三条小橋の池田屋事件の悲報が長州に届いた。閣内の志士はもちろん、長州の志士もまた蹶起上京すべしと、閣内諸藩の志士で、「忠勇隊」を組織する時であったので、両人は、ただちにこれに加わることになった。俊平は、第二伍長となり、6月16日、防州、三田尻を船出して、浪花を通り淀船で同月24日摂州の山崎に着いた。ここの八幡宮に参籠し、夕方は、宝塚に移った。
翌25日、久坂、真木等の隊とともに、天王山に拠って要所を押さえた。
元来、この挙は、昨文久3年(1863年)8月18日、長州が退京を命ぜられ、七卿が西下せざるをえなくなった動起を解明し、元のようにもどすことにあったので、京外に陣を置いて、歎願に歎願を重ねてあえて隊を入京させず、歎願の意が容れられることを待った。
一方、桂小五郎は、大挙して東上することはよくないとして、平和のうちに、もとの如くさせようと、単身で、京都市内に潜入して、おもに、因州藩にすがって、諸公卿、ならびに在京の各藩に対し運動をした。
一橋慶喜もまた、すぐさま軍隊を動かすのを避けるべきだと、画策をするのだが、尹宮、および薩摩会津両藩は、長州藩入京の許可を妨げるものだから、朝議は動揺して、話は中々、決しないありさまである。
この間、俊平は、黒岩治部之助と、病気保養という名目で、小倉宮の神職、小泉某の家に移り、ひそかに、京都の動静を探った。
日がたつにしたがい、浪士軍の殺気は益々たかぶり、それに加えて、国司、益田右衛門介が兵を率いて続々と到着をする。
長州世子は、五卿を守り、近日中に到着と聞き、和平の望みが非常に薄くなって、慶喜は6月18日最後的通達を出した。長州藩は、これを受け、こうなった以上は、五卿および世子等の大軍を待っているいとまはない。このまま、討手を迎え討つよりは、むしろ、入京して決戦すべきということになり、各隊の部署を定めた。
元治元年(1864年)7月19日早朝、久坂、真木らの諸隊と、益田右衛門介の指揮に従って、松原通り、柳馬場を過ぎ、堺町御門に着く。守衛の越後の兵は発砲してこれを防ぐ。その音、百雷の轟くにも似ていた。わが兵は、そこの通過は困難と察し、転じて、鷹(たか)司(つかさ)邸の後門から進み入る。越後、会津両藩の兵が合わせ来て、さえぎる。
わが兵の銃手は、垣の上から迎えて撃つ。俊平は尾崎幸之進と、槍をひねって表門から突入し、縦横にかけめぐる。両藩の兵は散乱し、退却をする。俊平らは、門にはいって小休をする。と、すぐさま、また、越、会、彦藩等の諸藩の兵が、群がって来て、大声でどよめく。
尾崎は、俊平に向かって、
「此処こそ、われらの良い死に場所ぞ。」
という。俊平
「そうだ、そうだ。」
と答え、並んで、敵の中へ突入する。
尾崎は、弾丸に当って、先ず戦死し、俊平は、誤って小溝に足を踏みいれて倒れた。そこへ、越後藩士、堤五一郎が迫って来た。俊平、立つことができず、五一郎に撃たれて死んだ。行年58歳。
明治14年(1881年)5月、靖国神社に合祀せられる。
明治18年(1885年)8月、南海忠烈碑が高知県大島岬神社の側に立てられ、その姓名が刻みこまれた。
明治31年(1898年)7月4日、特旨により正五位を贈られた。

「維新の門」の那須俊平(先頭)
維新の門の那須俊平


「土佐梼原勤王烈士列伝」より

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